平泉中尊寺金色堂

 

  平泉王国

 

 奥州平泉の世界文化遺産としての意義

 

 奥州平泉の文化遺産は、二〇一一年六月にユネスコの世界文化遺産に登録された。この年の三月、奥州と坂東で未曾有の東日本大震災が起こったあとだけに、この朗報を素直に喜びたい。平泉の歴史の流れを検証してみれば、平泉文化は世界文化遺産として最も相応しいものの一つであることが認識できるのである。

 奥州平泉は、ローカルな地方文化ではなく、大和朝廷や鎌倉幕府とは独立した国家組織、宗教文化をもっていたのであり、津軽の十三湊、安東水軍を通じて、あるいは平氏による日宋貿易などを通じて、大陸の文化、北方の文化とも独自につながりをもっていたのである。

 奥州平泉はマルコポーロの『東方見聞録』にも「黄金の国ジパング」として登場し、中尊寺は「純金づくめの宮殿」として描かれている。ジパングとは倭国のことではなく、日之本国の継承者としての平泉王国を指していたのである。この『東方見聞録』が世界的なベストセラーになることによって、西欧の「大航海時代」へ道を開くことになる。

さらに、平泉王国は源頼朝の鎌倉幕府によって滅ぼされるが、王国の多くの人々は生き残り、全国各地、さらには大陸へ退却し、特に、源義経主従と平泉の中枢勢力は、三陸海岸から十三湊へ、蝦夷地から大陸へと亡命、そこで植民活動をおこなっているのである。しかし、平泉の歴史をひも解いてみると、いまだに定説化されていない多くの謎、ミステリーが存在する。

 

平泉王国の浄土思想と初代国王藤原清衡の生きざま

 

 世界文化遺産登録のきっかけとなった平泉における仏教文化と浄土思想は、平泉王国の初代、藤原清衡の生きざまと深くかかわっている。清衡の母親は安倍王国の頼良の娘、いわゆる有加御前(ゆかごせん)であり、父親の藤原経清(つねきよ)も安倍一族とともに源氏軍と戦っている。前九年の役敗北による父親の刑死によって、母親が清原武貞の後妻に入り、清衡も藤原の姓をいったん捨てて、清原姓となっている。新しく父親になった武貞(たけさだ)は、源氏軍とともに安倍一族を滅ぼした清原武則(たけのり)の子息であった。武貞も安倍軍打倒の先頭に立って戦っている。いわば清衡母子は敵将の捕虜のような形で清原一族に入ったのである。これは義経の場合と似ている。

清衡の運命はさらに劇的で過酷さを増している。彼は清原家に入ってから一族の内紛に巻き込まれて妻子を殺され、その後は源義家と組んで、母親と武貞の間にできた異父弟の家衡を討って、清原一族を滅ぼしている。結果的に義家を差し置いて、安倍、清原一族の所領を引き継ぎ、姓も藤原氏に戻して、平泉藤原王国を創建することになるのである。清衡の浄土思想は、このような血族との抗争と戦乱の中から形成されたものであった。

 【用語解説】

 安倍頼良 奥州安倍独立王国を完成させ、貞任、宗任らの子息たちを王国に配置した。朝廷政府は安倍独立国家を打倒するために、源氏を派遣したが苦戦、清原武則、安倍富忠(とみただ)などを反忠させ、頼良は富忠軍の流れ矢に当たって死亡した。

 ⑵清原氏 歴史上、清原一族が表れるのは、出羽のエミシ系豪族、清原光方の時代であり、彼が清原武則の父親である。官位は兵部大輔である。光方には光頼(みつより)と武則の子息がおり、武則の妻は安倍頼清の娘とされる。源頼義から安倍一族との戦いで再三協力を要請されて、ようやく清原光頼が弟の武則を総大将としていわゆる前九年の役に参戦させている。これによって安倍軍と頼義軍の力関係は逆転し、安倍軍は敗北、この功績によって武則は従五位下鎮守府将軍になることができた。

源義家 八幡太郎義家ともいわれる。前九年の役で陸奥守鎮守府将軍として、安倍王国を打倒した。しかし、源氏や義家の勢力伸長を怖れる朝廷に冷遇され、奥州の支配権を獲得することはできなかった。

清原家衡 真衡の異母兄弟。武貞と藤原経清から後妻として入った有加御前との間に生まれる。源義家から奥六郡の北三郡を与えられたが、藤原清衡と内紛となり、敗北した。 

 

平泉、藤原一族、源義経をめぐるミステリーの数々

 

平泉をめぐるミステリーは無数に存在する。主なものだけをあげてみよう。

 平泉藤原氏の初代、藤原清衡の先祖がはっきりしない。清衡の父親、藤原経清はさかのぼって藤原秀郷(俵藤太)へ結びつけられ、秀郷はさらにさかのぼって藤原鎌足に結び付けられているが、系図の偽造が繰り返された結果である。奥州藤原氏は、安倍一族の傍系の一族であったことの認識が重要である。それなしには平泉王国の隆盛はなかったのである。

 安倍、安東一族、藤原一族、清原一族の関係が複雑で、対立、抗争、和解を繰り返している。日之本将軍を自称した安倍頼良と藤原経清はどのような関係にあったのか。なぜ、経清の子息、藤原清衡が平泉王国の初代国王になることができたのか。そして、前九年の役の敗者となってしまった頼良と勝者となった清原武則はどのような関係にあったのか。なぜ、安倍一族と清原一族は対立し、結局は、安倍一族、清原一族の領土をなぜ、藤原一族が引き継ぎ、平泉王国を創建することになったのか。

 奥州藤原一族、平泉王国の驚くべき富の源泉は、どこからくるのか。安倍王国の継承者である津軽の安東王国はどのようにして創建されたのか。平泉王国と安東王国の関係はどのようなものであったのか。なぜ安東王国は平泉文化の隆盛に深くかかわったのであろうか。

 異母兄弟であった源頼朝と源義経は、なぜ、骨肉の争いを繰り返したのか。義経はなぜ、奥州平泉に退去したのか。藤原秀衡は、なぜ、義経を受け入れたのか。頼朝と義経の対立の中で、後白河法皇や藤原基成などの朝廷勢力はいかに行動したのか。

 義経は本当に平泉で自害したのか。義経主従は北へ、蝦夷地へ、大陸へと逃れたというのは事実なのか。十万人以上もいた、平泉王国の残党、住民は頼朝による征服戦によって、どこへ消えてしまったのか。義経一行、平泉残党、平家残党が、大陸に大挙して渡航したというのは事実なのか。そしてそれが史実だとすれば、彼らは大陸でどのような役割を果たしたのか。マルコポーロはどこから平泉の情報を得たのか。マルコポーロはなぜ「救世主」と呼ばれ、その像が日本にあるのか。

 これらの多くの疑問を解き明かしてくれるのが、『日之本文書(ひのもともんじょ)』である。この文書については、毀誉褒貶(きよほうへん)があり、疑問とするところもないわけではないが、奥州平泉についてもおおむね正しい展開がなされている。なぜか。『日之本文書』自体が、安倍、安東一族の歴史を展開している文書であるからであるが、それゆえに源氏に対する、あるいは清原一族に対する怨念がにじみでている。したがって、『日之本文書』を検証するうえで真偽のどちらか一方に偏るのではなく、客観的な立場で、追究する必要があるのである。  

 

 平泉、藤原一族、源義経について詳しく展開している『日之本文書』

 

 本書では、平泉王国、平泉文化、平泉をめぐる歴史的事件について、最も詳しく、真実に肉薄している『日之本文書』の記述について検証する。この『日之本文書』は、安倍、安東一族、さらには日高見国、荒覇吐王国、安倍王国、安東王国、日之本国の歴史について書いてある文書であり、当然にも、平泉王国もまた、傍系ではあるが、この流れを構成しているのである。

 『日之本文書』は奥州藤原氏の成り立ち、平泉文化の成り立ち、平泉文化と十三湊文化との関係、源義経と頼朝の関係、平氏と源氏の確執、義経と平泉中枢勢力の北行、ジンギス汗とモンゴル帝国、フビライ汗とマルコポーロ、元と元寇などの記述が多く、しかもその内容が通常の歴史観や皇国史観とはまったく異なり、興味深い展開のものが多い。これらのテーマは一般の読者の関心が高い。

 なぜ、『日之本文書』には平泉についての情報が豊富なのか。それは奥州藤原一族、清原一族は、安倍、安東一族と血縁関係があり、さらに前九年の役などで、安倍一族と清原一族が同族同士であい争うという事態があったにもかかわらず、安東一族が安倍一族、清原一族、藤原一族との恩讐を超えて、平泉王国、平泉文化の隆盛に手を差し伸べるという関係にあったからである。

 『日之本文書』といっても、なじみのない文献である。それもそのはず、筆者が二〇〇九年の夏頃にはじめて使いはじめた言葉である。それまでは『和田家文書』と称されてきた。しかし、その文書の内容からいって、『日之本文書』と称するのが、妥当であると筆者が主張し、これまで特に異議を差し挟む人はいなかった。賛同する人が増えている。

 もちろんこれらの文書では、日之本国、日之本将軍、日之本の民という言葉は、頻繁に使われてきたのであり、日之本文書という言葉が使われなかったことのほうが、むしろ不思議である。

 【用語解説】

日高見国 荒覇吐国、安倍一族が形成した国家。荒覇吐国、安倍王国と同一国家と考えてよいだろう。

荒覇吐国 津軽に亡命した耶馬台族と中国から渡来した晋一族と土着の阿蘇辺、津保化一族が融合して形成された国。五人の王で治める五王制をとった。

 日之本国 太陽の下の国、日の本の国、日の下の国、日本国という意味で、耶馬台国、荒覇吐国、日高見国、安倍王国、安東王国、平泉王国がこれにあたる。倭国はこの日本国の国名を纂奪したというのが史実である。「北鑑」には「日之本国は住民自立の創建理念と大王選抜の国土である」という。

 

 清原一族、藤原一族の内紛としての後三年の役

 

 安倍一族に反旗を翻し、源氏に加担して安倍一族の敗北を導いた清原氏もまた、源氏の策謀と一族の内紛によって滅亡することになる。その過程について、『日之本文書』の『北斗抄 六』は述べている。

 「安倍一族の後、清原氏は源氏に走って、安倍氏に反忠して破った功によって、東日流の六郡や陸羽の采配の及ぶ地域を掌握したが、源氏はもとより『蝦夷は蝦夷をもって討つ』という奸計を策したものである。よって後三年の役が起こったのは、すべて源氏の画策に清原氏が乗ぜられた結果である」

 出羽仙北(秋田の横手盆地)の「俘囚主」清原武則は、前九年の役の功によって、以前から陸奥守の源義家(八幡太郎義家)から約束されていた鎮守府将軍に任ぜられた。彼は奥州と出羽を支配することになった。

 しかしながら、源義家が清原十二代の真衡(さねひら)が持っていた領土を分割して、清衡と家衡に与えたことにより、清原一族同士、それに藤原一族とがからんで、血で血を洗う内紛に突入した。これが後三年の役である。源義家が藤原清衡を支持し、武則の次男武衡が、甥の家衡に加勢した。これによって清原氏が同士討ちに陥り、壊滅状況になった。むろんそこには「以夷征夷」の「源氏の画策」があったのである。

義家がこれに乗じて、奥州全体を支配しようとするが、義家の私戦として朝廷は論功行賞を認めず、奥州の支配は清原一族として残った藤原清衡(きよひら)によって継承されることになった。義家は越中守に転出させられた。朝廷は源氏の力が強く成りすぎることを警戒していたのである。源氏と清原一族と藤原一族との間で、薄氷を踏むがごとく渡りとおした藤原清衡が、最後の勝利を得たのである。

 

三つ巴の熾烈な抗争の中で最後に生き残った藤原清衡

 

『北斗抄 六』は続ける。安倍一族は、奥州藤原一族を自分たちの直系とは認めていない。

 「しかるに清衡がいかに安倍の累血であっても、東日流の安東高星丸よりも近親ではなく、筑紫に逃れた宗任もしかりである。よって安倍氏が残した陸羽の金山の産金を復興ならしめ、挙げて黄金採掘しても、かつての安倍氏が秘密としてきた巨万の黄金については、その秘を解くには至らず、今でも謎のままである。よって産金のみに精進して、その実を挙げたけれど、武門を離れて、朝貢と都に模した雅びで華麗な平泉造営や仏寺の造営に消費されてしまった」

 藤原清衡は安倍頼時の外孫、すなわち娘婿の藤原経清(つねきよ)の子である。経清は前九年の役では、安倍一族に与して戦っている。彼は母方の有加御前(ゆかごぜん)から安倍氏血筋を引き継いでいるが、安倍の嫡子(ちゃくし 世継ぎ)ではない。前九年の役で父親が敗戦で刑死し、母とともに清原氏に引き取られ、清原氏を名乗っていた。だが、源氏の画策に乗せられて、清原真衡、家衡との骨肉の争いに巻き込まれ、源義家と組んで、家衡を破って清原一族を滅亡させている。後三年の役で勝ち残ったのが、清衡(きよひら)にほかならない。

藤原清衡は、安倍氏、藤原氏、清原氏、そして源氏一族の間で揺れ動きつつも、その中の力関係を計算したうえで、最後の勝者となりえたのである。さらには、一方の勢力に偏り過ぎることなく、東日流の安東氏の後ろ盾を得ることも、朝廷のお墨付きを得ることもできた。彼は結果的に清原家、安倍家の領地を引き継ぐことになる。奥州藤原氏の祖となり、平泉繁栄の基礎を築いたのも清衡である。彼は陸奥の奥六郡と出羽の仙北三郡を受け継いで、ここに奥州藤原氏による独自権力、独立王国が出現したのである。やがて平泉を都と定めた奥州藤原氏は、産金や馬産によって富を蓄積し、中尊寺、毛越寺に象徴されるような独自の仏教文化を築く。

 【用語解説】

 清原真衡 清原武則の孫、武貞の嫡子。真衡家父長的な支配に反発が強まり、後三年の役で同族の清衡、家衡と戦い敗北した。

 

 平泉王国が安倍氏、清原氏の領土を継承

 

 清衡は、後三年の役以降、真衡が握っていた鎮守府と秋田城之介(じょうのすけ)の地位を掌握し、陸奥国押領使(おうりょうし)となり、出羽から平泉に本拠地を移した。彼は摂関家の荘園も含めて、奥州全体の統治権、交易権も手に入れ、朝廷、摂関家、さらには東日流の安東氏とも深いつながりを維持することができた。彼らは朝廷へも忠誠を誓い、しばしば黄金や馬などを献納し、朝廷政府に一定部分は恭順していた。安倍王国は完全な独立国家であったが、平泉王朝はいわば半独立国家であった。それでも倭国が勝手に名付けた「俘囚国家」などと規定することはできないだろう。

 初代清衡は朝廷と平氏政権から陸奥押領使、二代基衡は陸奥・出羽押領使、三代秀衡はついに鎮守府将軍、陸奥守(むつのかみ)の官職も手に入れた。このような奥州藤原氏への厚遇に対して、これを芳しいこととは思わない、当時の右大臣藤原兼実(かねざね)は、その日記『玉葉』の中で「奥州の夷狄(いてき)秀衡を鎮守府将軍に任じたことは乱世の基なり。天下の恥、何事かこれにしからんや。悲しむべし、悲しむべし」と秀衡蔑視、奥州蔑視をたくましくしている。

 清衡は奥州藤原氏として安倍一族の支配領域の一部を継いだが、安倍一族の直系の継承者とは認められず、秘密の大黄金は継ぐことはできなかった。安倍一族の後継者はあくまでも、安倍貞任の子息であり、東日流に逃れて安東氏を起こした高星であった。清衡は安倍一族が蓄積した黄金ではなく、新たな産金による黄金を蓄積し、朝貢や平泉の造営に消費され続けていく。

 【用語解説】

 秋田城之介 秋田城に置かれた秋田出羽国府の長。

 押領使 平安時代、地方の治安維持に当たった。

鎮守府将軍 古代蝦夷経営の軍政府の長官。

 

 「平泉栄華の基」は安倍王国の遺産

 

 『日之本文書』は平泉の絢爛豪華(けんらんごうか)な仏教文化を必ずしも評価していない。「丑寅日本記 全」[陸羽今昔抄]は指摘する。

 「潮路に命を賭けた安東船の主将、安東太郎貞季(さだすえ)は商道交易によって一族をより富ませたのである。かたや地司主権者に君臨する平泉の藤原氏は、雅(みやび)なる栄華の限りに浪費し、平泉を京都もどき柳の御所及び寺社に浪費した」

 平泉政権は、陸奥守と鎮守府将軍を兼務し、公家の出身で約四十年間も平泉でくらした藤原基成(もとなり)を政治経済の顧問として受け入れ、彼に奥州藤原氏の三代目秀衡の正室として基成の娘を嫁がせ、秀衡と基成の娘の間に泰衡が生まれている。源頼朝と対立関係に陥った義経を、平泉に受け入れる工作をしたのも基成であっただろう。

 『日之本文書』[北都平泉栄華の基](衣川文書)は述べる。奥州藤原氏の繁栄は、奥州の産金のみならず、安倍一族による奥州支配構造を受け継いだことにあるとしている。

 「華麗なる平泉藤原三代の夢の跡は、その先なる安倍氏の歴史を知らずしてありえないものである。倭宮(やまとのみや)を思わせる寝殿造りの館、通称柳の御所、その一帯に金銀珠玉を彩った仏閣、曲水(ごくすい)の宴(うたげ)に奏(かな)でる楽の音、北都の栄華を極めた藤原氏の血縁をたどれば、安倍氏の累血であり、前九年の役からなお古い安倍氏の永代によって貯えた遺産によって賄(まかな)われた栄華である」

 奥州平泉政権は、調庸の代わりに大量の砂金を朝廷に納めていた。奈良時代は宮城県北部が産金の中心であったが、平安時代には北上川中流域に移り、磐井、気仙、江刺、すなわち平泉政権の中枢の支配領域が産金の中心になっていた。しかし、大量の黄金が消費されるので、奥州の黄金は枯渇しはじめ、おそらく大陸から十三湊を経由して金を取り入れていただろう。

 【用語解説】

安東太郎貞季 十三藤原秀直を破り、福島城を手に入れ、安東氏繁栄の基礎を築いた。安倍氏系図でみても、貞季を名乗る国主は数人いるが、ここでは安東高星のひ孫にあたり、大里淵崎城主の安東太郎貞季のことであろう。彼は海外に積極的に雄飛して国際的な交易を盛んならしめている。特に北方諸島への進出をはかった。

 

 平泉王国も国際的な交易の担い手

 

 『日之本文書』「陸奥史審抄全」の[平泉黄灯絶逝]は、平泉の繁栄について、次のように述べている。彼らの富の源泉は、奥州の金と馬だけでなく、大陸との交流にあったのである。

 「藤原清衡は奥州金山を採鉱するための山靼(さんたん)紅毛人(こうもうじん)を平泉に召し、領内で採鉱した。また、山靼馬を西海の土崎に航着させ、東国から気仙湊に航着させた名馬を交配させ、ここに産金と産馬の実を挙げて富を蓄積した」

[北都平泉栄華の基](衣川文書)は、平泉と十三湊の密接な関係について述べている。

 「藤原秀衡は、背に東日流の安東氏が存在することを心にとめ、子息の秀栄を安東貞季の息女に婿入れさせて、十三湊藤原氏とした。十三湊に来航する唐船、山靼船の交易によって、北都平泉はますます隆盛となり、中尊寺、毛越寺ほか八十八棟に及ぶ大伽藍(だいがらん)はすべて金色によって内部を飾り、大朱彩によって創建する神社仏閣、さらには外ケ浜に至るまで建立した金色の卒塔婆(そっとうば)は、石塔山の聖所に眠る安倍頼良の菩提に謝意を表わそうとするためだという」

 しかし、藤原三代が築き上げた中国や京都の仏教文化を模した黄金構造物は、民の意向を尊重した質実で謙虚な文化とは、違和感を感ぜざるをえない。いかに生類万物の幸いを願うとしても、黄金をかき集め、贅を尽くすような絢爛たる造物は、生類、衆生の犠牲の上に築かれたとしかいえないものである。ただし、平泉の仏教文化を、文化的、宗教的な記念碑として、世界遺産として登録する価値は十二分に存在する。

 【用語解説】

  紅毛人 白人系、コーカソイド系の人を指すだろう。

 

 『總輯 東日流六郡誌 全』[平氏滅亡と奥州平泉](寛政六年九月 秋田孝季)

 「長治二乙酉(きのととり 一一〇五)年二月、清衡の建立した中尊寺をはじめとして、金色堂および仏塔仏寺は、三百棟を越えるといわれる。なかでも天治元甲辰(きのえたつ 一一二四)年に上棟した金色堂は、京師(けいし 京都)でも及ばない華麗な造営であり、これぞ東日流安東船の異国から得た資材を用いたからである。

 奥州藤原氏の二代基衡の次男、十三湊領主藤原秀栄は、東日流入国以来、平泉との親交が長いために、異国の仏像や仏具を入手し得た。清衡はいかに産金貢馬の利益があるといっても、十三湊の水軍がなければ、このように華麗な文化を創造することはできなかった」

 【用語説明】

 藤原清衡(きよひら) 奥州藤原氏の祖で、平泉繁栄の基礎を築いた。

 藤原基衡(もとひら)奥州藤原氏の二代目当主で、毛越寺を造営した。

 藤原秀栄(ひでひさ)奥州藤原氏の二代基衡の次男で、十三湊の領主。十三湊城主に安東氏季へ婿養子に入り、当主を継いで、安東船による国際貿易を盛んにし、十三湊を国際貿易港に盛り立てた。奥州藤原氏の平泉文化も支えた。

 【内容説明】

 『日之本文書』は、このように北方からの文化の流入、北方と奥州との交流、交易について、詳しく展開しており、既存の公式歴史書が無視、隠蔽してきた事実を浮上させているのである。平泉文化と安東水軍、十三湊とは、密接な関係にあったのである。

 このような平泉文化を支えたのは、第一に奥州の金山から黄金、北上川流域の砂金があった。ただ、そればかりではなかっただろう。秀衡の時代には、すでに鉱山金も砂金も掘り尽くして減少していた。安東船を通じて、日高国、流鬼国や大陸(沿海州、モンゴルなど)からの交易で得た金もあっただろう。金色堂の建設のために、何と金五十四万両も費やされたという。