奥州侵攻 

 

藤原清衡の非戦平和主義

 

 しかしなぜ、平泉政権は、頼朝と本気で戦かわなかったのか。その理由の一つに、奥州藤原一族、特に清衡の仏教的な平和思想、あるいは先祖伝来の非戦平和思想もあったからではないかと考えられる。「前九年」「後三年」で流されたおびただしい同族への追悼の念も強かった。奥州藤原氏は清衡以来、仏教、特に法華経を信仰していた。平泉の「鎮護国家大伽藍」の中心にある「釈迦堂建立趣旨文」は、次のように述べている。

 「(釈迦堂鐘楼の)鐘の音はひびき渡ること限りなく、たちまち皆平等に苦しみを去り、安楽を与える。官軍や蝦夷の人々が戦乱に死没することは古来幾多あっただろうか。いや、この地にあっては人だけでなく、けものや鳥、魚、貝の類も、昔からはかり知れないほど犠牲になっている。霊魂はあの世に去ったが骨は朽ちてこの世の塵となって残る。鐘の音(ね)が大地を動かす毎(ごと)に、罪なく犠牲になった霊が浄土に導かれますように」

 藤原清衡は、源氏、清原氏、奥州藤原氏の三つ巴の争乱の中で、同族相食む戦争を経験、かろうじて生き残り、その辛く苦しい過去から学び、平泉に戦乱のない浄土を築こうとした。彼は戦乱の中で多くの殺戮を繰り返し、後に敬虔な仏教徒として、寺院や仏塔を築いたインド・マウリア朝のアショカ王と似ている。

 

平泉王国の和睦平和主義

 

 平泉の平和思想は仏教の浄土思想からきているのは事実ではあるが、筆者はそれだけではないと考える。「陸奥古事抄 全」[山靼西北巡礼三開道]は、荒覇吐族、安倍一族、安東一族と続いてきた平和主義について、次のように述べている。「国に敵侵があっても、利があれば防ぎ、利がなければ避け、無闇に人命を楯としない」と。これは奥州平泉藤原一族によっても発揮されたのである。

 四代の泰衡は、なぜ、義経とともに頼朝と戦わなかったのか。義経はなぜ、泰衡とともに鎌倉軍と戦わなかったのか。『吾妻鏡』によれば、三代の秀衡は、死去に際して、「義経を大将軍とし、その命令に従い、国衡、泰衡も一致して、頼朝と戦うよう」に遺言している。奥州軍の兵力は十八万、おそらく義経も頼朝との全面対決によって、鎌倉幕府を打倒して、平泉幕府を樹立することを目指したかっただろう。

 しかし、秀衡の子息、泰衡との異母兄弟、エミシの血を引く国衡は、勇猛な武者であったが、「国衡は母賎(いや)しく、泰衡は母尊(とうと)し」といわれた。泰衡は公家出身の基成の娘の子供で、ひ弱であったが、秀衡の後継者に選ばれた。腹違いの兄弟の仲がよいとはいえなかった。泰衡へは頼朝からの「義経の身柄を差し出せば、罪には問わない。従わなければ官軍を差し向ける」という懐柔策、恫喝策によって動揺しはじめていた。奥州の陸奥、出羽の国司や豪族や平泉武士たちは、関東武士のように戦いの経験も浅く、平泉政権に対する忠誠心も薄いものであった。

 安倍一族、安東一族、奥州藤原一族の伝統は、戦争によって双方が血を流し、民衆に犠牲を強いるのではなく、自らが、戦争を避けて退却し、辺境に退いて、敵が衰退するのを待って、再興をはかることである。平泉政権は、手をこまねいて、頼朝によって侵略されるままに任せたのではなく、軍隊もその家族も北へ向かって移動し、財宝も持ち去ったのである。平泉の主力部隊は、安東水軍の力を借りて、大陸へ雄飛して、そこで日之本国の再興を図ったのである。モンゴルの黒竜江上流には、後述するように、昔から安倍一族、安東一族の強力な植民地が存在していたのである。

 

 日之本国の平等平和主義はどこからきたのか

 

 「北鑑 第四十五巻」は、日之本国の平等平和主義について、次のように展開している。

 「丑寅日本国の国律は、民をして争わず、信仰に睦み、人をして上下を作らず、挙げて陸海の富に依存することを旨としてきた。国を侵す敵があれば、民は皆兵となって国土を護るが、まず人命を救済することを優先する。人の生命こそ大事とするのは、荒覇吐神の趣旨であり、民の睦みはどのような人々とも別け隔てなく、民は皆、和をもって神に救われるという心意がゆきわたっている」

 日之本国系の人々の伝統は「戦争が起こりそうになれば、それを避けていったん退却する」ことである。阿毎族は、日向族の佐怒王の侵攻を受けて、近畿を脱出した。荒覇吐系の日高見エミシ族は、大和朝廷の侵攻を受けて、糠部(青森県東部)に退避した。安倍一族は源氏の侵攻を受けて、東日流に脱出した。奥州藤原一族は鎌倉軍の侵攻を受けて、全国各地や大陸へ退避した。安東一族は南部氏の侵攻を受けて、十三湊、渡島(蝦夷地)、秋田へ脱出した。これはまさに、「民をして争わず」「人の生命こそ大事」とする、あるいは「人をして上下を作らず」「どのように人々とも別け隔てなく」という平等平和主義、融合融和主義が、古代より現在まで貫かれていることを示している。

 「東日流外三郡誌 第三百六十八巻」は、彼らの平和主義を「民族を異にして争わず、信仰を異にして対せず」と表現している。

 「丑寅の民は、山靼においてはクリルタイという、民族をして和を護るための誓いがある。商人を襲わず、これを破る者は、誅滅される掟が固いために、ヨーロッパ人が西方から脱出して到着した安住の地であっても、大草原の自然火、黄土嵐などの災害にあって、東北を神の国として移りくるのは若き者に習いである。民族を異にして、争わず、信仰を異にして対せず、その生活が自在であるのは、古代ギリシアの政治に習ったものであるという」

 【用語解説】

 丑寅日本国 丑寅は東北の方角を表しているので、日之本国、日高見国、安倍王国と同じ意味と考えてよいだろう。

 国律 国家としての基本的な方針、国是。

 

 奥州藤原氏の万類平等と安倍一族の自然信仰

 

 奥州藤原氏は清衡以来、仏教、特に万物共存をとなえる法華経を信仰していた。平泉の「鎮護国家大伽藍」の中心にある釈迦堂建立趣旨文は、既述のように次のように述べている。

 「人だけでなく、けものや鳥、魚、貝の類も、昔からはかり知れないほど犠牲になっている。霊魂はあの世に去ったが骨は朽ちて此の世の塵となって残る。鐘の音(ね)が大地を動かす毎(ごと)に、罪なく犠牲になった霊が浄土に導かれますように」と。

 奥州藤原氏の万物への慈悲の精神は、法華経の思想であるだけでなく、安倍氏の自然観と共通するものである。彼らの信仰の要は、天地一切のものとの和解である。「北鑑 第四十四巻」はいう。

「一、万有の生命をみだりに殺生すべからず。

 二、天なる一切、地水の一切は、みなながら神と覚えるべし。

 三、神は全能にして、人の生々一切を身通している。よって神を崇(たっと)ぶことを一義として、親を大事とし、夫婦睦み、子供を育み、人との和を大事とせよ。

 四、祈りとは、われのみならず、他者に対しても祈りがあって神に通達する。

 五、人の手に造られる像に神は霊を鎮むことはない。神の相は天然なり。自然なる一切なり。

 六、神は人身に入ることはない。神の名を借りて、己れを神として、人に神がかる迷信を告げるべからず。

 七、信仰の要は、天地一切のものとの和解である。

 八、信仰は己れのままに行を造り、人に誘うべからず。

 九、神を敬うまえに、まずは己れに強い信仰を保つべし。

十、厚く信仰に基づくほかに、他のいかなる信仰にも入らず、それを悪行とそしらず、心して一心不乱たるべし」

 

 頼朝と義経の深刻な対立はなぜ起きたのか

 

 一ノ谷の戦いの後、源氏の勝利に最も貢献したはずの義経は、頼朝から昇進が認められなかった。凱旋(がいせん)将軍として都でもてはやされる義経が、朝廷や公家に取り込まれることを心配したのだろう。頼朝は義経らに自分の「内挙」(認可)がないかぎり、任官に応じることのないように釘を指していた。義経は頼朝の扱いに不満だった。いや強い不信感を持った。

 その後、義経の勲功を認めた朝廷から、義経に左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)の位と検非違使(けびいし)の職に任じられ、さらには従五位下に叙された。このときに与えられた太夫判官(だいふほうがん)という役職は検非違使のこととされている。「九郎判官」「判官びいき」の由来となった。また、御所への昇殿と後白河法皇との対面も実現した。これらの朝廷の任官は、頼朝と義経の間にクサビを打とうとする後白河法皇の謀略であることに義経は気づかなかった。無断任官に激怒した頼朝は、義経の鎌倉入りを認めず、平氏討伐の任から外し、義経に与えられた平氏領地を没収してしまった。

 義経は鎌倉入りを求めて「腰越状」を出しているが、その弁明状の冒頭に「左衛門少尉」という官名と「源」の姓を記しているが、正式には「源」を名乗れる者は、源氏の棟梁(とうりょう)となった頼朝の認めた者に限る、となっていたから義経も無神経すぎる。また、頼朝が世話した河越氏の娘のほかに、よりによって平氏の平時忠の娘を妻の一人に迎えたことも、頼朝の勘にさわったのは間違いない。

頼朝は執拗に義経の身辺調査を行い、刺客を放ち、討伐隊を仕向けるまでになった。これらを考えると、頼朝と義経の間に「奥州平定」の密約があった、などとは考えにくいことである。『日之本文書』にも客観性の欠ける部分が、まま見受けられるのである。

そもそも頼朝にとって、義経が奥州平泉の藤原一族のもとで生活してきたことが、気に掛かることであった。そして、奥州藤原氏と平氏、朝廷が交易などを通じて、密接な関係があることも無視できなかった。この三者が緊密に結び付けば、鎌倉幕府にとっても、ゆゆしき事態が予想された。義経が奥州平泉に逃げ込まなかったとしても、頼朝は奥州平泉を攻撃していただろう。平泉には垂涎(すいぜん)の富があった。

 【用語解説】

 一ノ谷の戦い 現在の兵庫県の須磨に陣取っていた平氏軍に対して、義経が背後から鵯越えの逆落としの奇襲をかけ、大敗させた。

 左衛門少尉 平安時代の官位で、宮門の警護を担当した。

 検非違使 公安、警察機能を担当する長官。現在でいえば国家公安委員長クラスにあたるか。

 太夫判官 官位の一つで、義経は九郎判官と号した。

 垂涎 よだれが垂れるほどほしがること。

 

頼朝の「奥州合戦」の目的は平泉王朝の完全制覇

 

 『日之本文書』「丑寅風土記 第六巻」は「奥州合戦」について「一挙に二十五万騎をもって平泉を落とす前に策したのは、頼朝の父祖以来、欲してきた安倍一族の長年蓄積してきた万貫の金塊である」としている。公式の歴史書も「二十八万四千騎」としているが、いずれも多めに見積もっているだろう。

 奥州への義経の受け入れは、強力な軍事指導者の登場といえるが、確かに平泉王国にとってはリスキーで、厄介者であったといえないこともない。「朝敵」「逆賊」の義経を受け入れたことによって、「奥州征伐」の口実ができたことは事実である。しかし、『日之本文書』のように、頼朝と義経が密約を結んで、奥州平定を企(たくら)んだとはいえないだろう。「奥州平定」を最も強く望んだのは、鎌倉幕府の権威のもとに、全国統一を目論んでいた頼朝であった。

 頼朝にとって、秀衡の死去と「朝敵」となった義経の平泉滞在の事実によって、絶好の「奥州討伐」の機会を与えられたのである。実は、義経が平泉を脱出して北を向かったという情報も、頼朝のもとに入っていた可能性のほうが強いだろう。これによって頼朝は、鎌倉幕府と義経を総大将とした平泉政権との全面対決は、避けられるだろう、平泉政権の抵抗は強くないだろうと踏んだのである。

 だからこそ、慎重派の頼朝をして、朝廷から「奥州討伐」の許可が出ないうちから、自らを総大将として、御家人(ごけにん)を通じての全国動員をかけたのである。大規模な遠征計画を立て、綿密な勝利の計算ができていたのだろう。

 頼朝は公称二十八万余にものぼる遠征軍を大手軍、東海道軍、北陸道軍と三つに分けて、自らが大手軍の先頭で陣頭指揮に当たった。文治五(一一八九)年七月のことであった。平泉軍も泰衡、国衡を大将軍として、各地に城壁や柵を構築して大戦に備えた。しかし、泰衡の平泉政権は全面対決、徹底抗戦は考えていなかっただろう。

 頼朝による「奥州合戦」の目的は、平泉政権の完全制覇と、そして、平泉の富、交易権の奪取であった。だから、義経が北へ逃亡しようが、衣川で偽戦が企てられようが、「奥州合戦」を取り止める理由にはならなかった。平泉王国が義経を自害に追い込んだと見せかける偽戦を仕組んだにもかかわらず、義経を追討すれば、泰衡に褒賞を与えるとしたにもかかわらず、後白河法皇の意図にも反して、頼朝は泰衡討伐、奥州征服の全国動員を行ったのである。

頼朝の予想どおり、平泉の大将軍泰衡も平泉から奥大道を通って秋田経由で北に逃亡した。鎌倉軍は、八幡太郎義家による前九年の役を意識したのか、泰衡を追って、厨川まで及んだ。実は泰衡もまた、蝦夷地へ向け、義経主従、平泉残党と合流しようとしていたふしもある。しかし、泰衡は家人の河田次郎の裏切りによって、秋田の比内(ひない)郡で殺害され、三カ月に及んだ「奥州合戦」は終了した。もう一方の大将軍国衡は、平泉の金塊を持って義経と合流したのである。

鎌倉軍もほとんど無傷であった。そして、頼朝は前九年の役と同じように、泰衡の首を安倍貞任の首と同じように、天下にさらしているのである。東日流、蝦夷地などの一部を除いて、全国統一がなされたのである。源氏の宿願が達成されたかに見えた。

 勝ち誇った頼朝は、恩賞の授与や戦後処理を平泉で行い、合戦の翌年、鎌倉から京都へ上洛(じょうらく)、後白河法皇に凱旋(がいせん)報告をする。その際、頼朝が朝廷に献上したのは、わずか砂金百両、鷲羽二櫃(ひつ)、馬百匹であった。もちろん奥州合戦による略奪品であったが、驚くほど微々たるものではないか。頼朝は期待どおりの富を平泉から獲得できなかったのではないか。平泉の富はどこへ消えたのか。その腹いせが、平泉の焼き打ちなのである。それはともかくも、頼朝は陸奥と出羽の広大な地域を支配下に収めることができた。