ナ―ダム(大祭)での騎馬競技

 

大陸亡命 

 

『日之本文書』は義経自害説を完璧に否定する

 

 鎌倉幕府の公認書である『吾妻鏡』は、義経の最後について、次のように記している。

 「義経は民部少輔(藤原)基成朝臣(あそん)の衣川舘におり、泰衡の従兵数百騎が、その館に攻め寄せて合戦した。義経の家人(けにん)は防戦したが、すべて敗れた。義経は(衣川舘)の持仏堂に入り、まず二十二歳の妻(正室の河越重頼の娘、北の方)と四歳の娘を殺害し、次いで自殺した」

 これがアカデミズムによって全面的に受け入れられ、一般常識になっている。義経を一方的に美化する『義経記』も、義経一党が自害するに到る場面を詳しく、劇的に描いている。まるで小説を読んでいるかのようだ。しかし、義経自害説こそ正真正銘のフィクションであったのである。この衣川の戦いで、義経の妻子も死亡し、臣下の弁慶も鈴木三郎重家も亀井六郎重清も討死したとされている。はたしてこれが事実といえるであろうか。それはまったくの作り話である。

 『東日流六郡誌大要』[源九郎義経之事]では、次のように述べられており、こちらのほうが真実に近いといえるだろう。

 「通説では義経が平泉に自刃したという伝説や武蔵坊の立往生伝説は、平泉の藤原泰衡が鎌倉の頼朝に対して偽証した作り事である。義経が東日流において安東氏を頼らなかったのは、祖先をして仇である系統であるからであり、十三湊に藤原氏を頼ったのは義経の配慮であるという」

 義経をかくまった藤原秀衡は、義経を総大将として、鎌倉幕府の頼朝軍と戦う決意をもっていた。その子泰衡も義経とは幼いころからの知己であり、とても義経を見殺しにすることなど考えられもしなかった。ただ、泰衡には義経とともに頼朝軍と戦う勇気がなかった。彼の選んだ道は、義経を密かに平泉から脱出させ、「偽戦」と「偽首」によって義経が死んだと見せかけることである。頼朝を騙(だま)す策略であった。高館で自刃したのは、義経の影武者、佐藤(杉目)行信(すぎのめゆきのぶ)だった。しかし、頼朝は騙されなかった。

 

 義経自害説は『吾妻鏡』などによる創作

 

 『日之本文書』は鎌倉幕府の公認書である『吾妻鏡』の義経自害説を真っ向から否定している。「丑寅風土記 第六巻」は「義経による平泉の財を狙った隠密行動を泰衡が知ることとなり、高舘(たかだち)に火を放って殺害しようとしたが、義経は脱出して北へ逃れた」とある。義経三十一歳、文治五(一一八九)年四月のことだとされている。『北斗抄 六』の[陸羽記]も「義経が平泉で死んだというのは、鎌倉方の創作で、その一生は、それまた秘密とされている」と述べる。意味深長な文章である。

 義経が最後に立てこもったとされる高舘には、わずか二十余人しかいなかった。それを攻めた泰衡の軍勢もわずか数百騎にすぎなかった。これは不自然である。鎌倉から派遣された諜者の目をあざむくために、夜戦での火攻めを演出した。義経が自害したのは高舘だとか、衣川舘であるとかの議論は残るが、自刃したのは、義経の影武者、佐藤(杉目)行信だったのは紛れもない史実である。弁慶の立ち往生も、鎧兜(よろいかぶと)を着けたワラ人形だったという。

鎌倉へ届けられた義経の首とされるものは、身代わりとなった杉目行信の首である。その首は焼首であり、「自刃」してから四十五日もたっている。しかも夏の炎暑の時期で腐敗が著しく、誰の首か意図的にわからないようにしたとしか思えない。首実検が行われたが、頼朝もその首が義経のものでないことを感づいていたため、自分では確かめようとしなかった。おそらく密偵や調査隊を使って、北へ逃れたという生存情報を得ていただろう。

 「丑寅風土記 第六巻」は「義経を討った証しとして、泰衡がその焼けただれた首を届けたが、事の次第を見抜いていた頼朝は、泰衡を攻める口実を作って平泉を灰燼としてしまった」と史実に肉薄している。

 

 義経の身代わりになった杉目行信の供養碑と判官森の胴塚

 

 身代わりになった杉目行信の石碑が、宮城県栗原郡旧金成(かんなり)町の江浦藻山信楽寺跡(つくもさんしがらきじあと)にあり、その石碑には「源祖義経神霊見替杉目太郎行信碑」と刻まれている。「見替」とはっきり刻んであるではないか。行信は義経の母方の従兄弟だとされ、『奥州南部封域志』などによれば、義経と同い年で、顔もよく似ていたという。

 行信の石碑からそれほど遠くない宮城県栗原郡栗駒町(現栗原市)沼倉の判官森に、義経の供養碑(胴塚)がある。旧沼倉村の領主、沼倉小次郎高次(たかつぐ)が、平泉で自害したとされる義経の胴体を葬ったと考えられている。その碑には「大願成就 上拝源九郎官者義経公」と刻まれている。墓としては奇妙な碑文である。義経は平泉では死んでいない。だとすればこの墓は、義経の身代わりになった杉目行信の胴体を埋めた墓であるとともに、義経の悲願の達成を願った碑ということになる。義経の「大願成就」とは、端的にいえば、大陸に平泉亡命政権を作ることである。

 行信の首は、平泉から首実検のために運ばれて、神奈川県藤沢市藤沢の白旗神社に義経の首として葬られた。この神社の祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と義経である。白旗とは源氏の白旗であり、白旗川の白旗であり、そこには義経の首を葬った首塚の碑と首を洗ったとされる首洗い井戸がある。この首は義経のものではなく、「偽首」として運ばれた杉目行信のものだったのである。これで義経身代わり説の辻褄があう。白旗神社の縁起によれば、頼朝は義経の怨霊に脅え、藤沢次郎清親に命じて、首塚に近い亀の子山に祠を建てて、義経の霊を祀ったとされる。この縁起はこの間の辻褄を合せるための創作なのである。

 それまでに義経の身代わりになっていたのは行信だけではなかった。たとえば源平合戦のときに、奥州平泉の藤原秀衡の命によって、義経に従った佐藤忠信もしばしば、義経の身代わりとして振る舞い、義経の逃亡を助けている。しかし、その忠信も隠れ家を追捕使(ついぶし)に見つけられ、最後は自害したという。

総大将クラスの武将が、影武者をたてて、身代わりにするのは、常套手段であり、そのために武将の図絵もまた、意図的に本人とは似ていないように書かれたものも多い。義経はその代表格であり、頼朝のかの有名な肖像画もまた、現在では信憑性がないために「伝」が付くようになっている。

 

 『日之本文書』の信用するに足る詳細な義経北行説

 

 『日之本文書』には、源義経についての記事が豊富に含まれている。公認史のように衣川で自刃したというものもあるが、おおむねは平泉から退却して、北へ向かったというのが多い。この文書はおおむね真実に近い展開をしている。

 『東日流外三郡誌 第二巻』[大河兼任之不降]では「源頼朝の暗謀によって、弟の義経は奥州に脱出し、平泉の泰衡に身を寄せていたが、義経は暗殺され、泰衡もまた逆臣に殺された、とされている。だが、義経は衣川で自害したとされる約一年前に衣川を出て、北に向かっている」と記されている。大川兼任(おおかわかねとう)とは、頼朝の鎌倉軍に降伏せず、反乱した秋田の平泉王国の武将である。

 『東日流六郡誌大要』[源九郎義経之事]では、義経北行について、次のように詳しく展開しているが、これらの情報は、全国的に張り巡らされた修験ネットワークを通じた情報であっただろう。

 「源頼朝は平氏討伐を果たした義経を鎌倉に入れず。肉親相はむがごとく、義経追討布令を諸国に回状する。

 日本の国土に寄る辺(べ)なき義経、修験の装をなして西海を奥州平泉に遁世(とんせい)を志して、主従十六人が出羽の山伏道場に立ち寄ると見せて、その遁行(とんこう)を武蔵から白河越えと決した。一路田村郡に入って、栗原の迫(さこ)を抜け、伊治(いじ)水門を経て、日川(ひかわ)を登り、平泉に到着した。

 平泉では義経の退去は、鎌倉の策謀ではないかと賛否両論の対立があり、義経は密かに猿ケ石(さるがいし)川を伝わり、閉伊(へい)に入り、陸中の海浜を糠部(ぬかのぶ)に入った。さらに名久井を経て合浦外浜(がっぽそとはま)に出て、東日流中山の無住寺に仮宿すること十七日間、十三湊に藤原秀栄(ひでひさ)に食客をして、急いで渡島に渡った。江差にある御神威(オカムイ)岬から西海に臨み、唐国への渡航を志し、正治己未(つちのとひつじ)年(一一九九年)春四月十八日、満達船で異土に渡った。

 義経が平泉に自刃したという伝説や武蔵坊の立往生伝説は、平泉の藤原泰衡が、鎌倉の頼朝に偽証した作り事である。義経が東日流において安東氏を頼らなかったのは、祖先をして仇(かたき)である系統であるからであり、十三湊(とさみなと)に藤原氏を頼ったのは義経の配慮であるという」

 以上の『日之本文書』の記述は、大部分は史実であろう。人名、地名が具体的にはっきり述べられ、年月日まで詳細に語られ、実際に見聞きしたもの、あるいはその人から聞いたものでなければ、書けないような事実が語られているからである。ただし、蝦夷地から大陸にわたった年を一一九九年としているのは、もっと数年速めてもいいのではないかと思われる。おそらく義経は蝦夷地には数年程度しかいなかっただろう。

 義経北行を全面的に支えたのが、朝廷や幕府に反感を持つ山伏ネットワークであり、義経主従の主なメンバー、武蔵坊弁慶や常陸坊海尊らも山伏であったのである。そしてこの義経北行を支援し、記録したのも役行者系の東日流修験宗山伏ネットワークであったのである。

 【用語解説】

   谷のこと。

  伊治水門 伊治は伊津(いづ)ともいった。宮城県の古代栗原郡の地名で、伊豆沼のあたりの地名であろう。野鳥の天国

 日川 北上川のこと。

 猿ケ石川 遠野盆地を流れる北上川の重要な支流。

 名久井 青森県の南部町と三戸町にまたがる地域。名久井嶽がある。 

 江差 渡島半島の桧山郡江差のことと思われる。

 御神威岬 現在の積丹半島の神威岬と思われるが、断定はできない。

 

 『日之本文書』が義経北行軍を剽窃説したというのは根拠がない

          

 偽書派のS氏は「『東日流誌』についての総合的批判 そのⅡ」の中で「さらに『奥州隠誌大要』には、義経が大陸に渡って、ジンギスカンの客臣になったと書かれている『判官公傅』があるが、これも同じ『歴史読本』の中の佐藤睦(あつし)氏の『北への逃亡ルート・義経北行伝説』の論文と多くの点で表現の一致が見られる。……つまり、『奥州隠誌大要』は、その内容の取材源を『歴史読本』昭和六十一年八月号に求めたと思われるのである」と決めつけている。はたしてそうなのか。これもまた、偽書派の珍説の一つである。

 まず「奥州隠誌大要」の[判官公傳]は、義経の北行軍について、どのように述べているのだろうか。

 「源義経は、文治五(一一八九)年閏(うるう)三月三日、平泉高舘(たかだち)において、自刃したという言い伝えは、偽伝である。文治二年(四年が正しいだろう―筆者)七月十三日、九郎判官主従は、高舘を東北に旅立って、赤間根峠を室浜(むろはま)に至り、魹(とど)ケ崎浦の豊間根(とよまね)族主安倍高任に長宿した。

 文治三年(五年が正しいだろう)七月十六日、魹ケ崎より船で糠部(ぬかのぶ)に至り、高舘(八戸の高舘か)を築いたが、地元民がこれを良く思わなかったので、文治四年(六年が正しいだろう)四月七日、外浜(そとがはま)に至り、中山を西に越え、忌羅市(きらいち)、砂力(さりき)を経て十三湊にたどり、地主の藤原権守秀栄(ごんのかみひでひさ)に食客し、同年(六年)八月七日、渡島に至り、待尾間内(まつおまない)から山靼に赴(おもむ)く」

  【用語解説】 

 赤間根峠 現在の笛吹峠のことと思われる。笛吹峠を下ったところに中村判官堂がある。

 室浜 現在の根浜のことと思われる。近くに法冠神社がある。

豊間根 現在の岩手県下閉伊郡山田町豊間根あたりを支配していた安倍一族の別名だろう。

魹ケ崎 岩手県宮古市の重茂半島にある本州最東端の岬。

 糠部 ここでは八戸のことを述べているだろう。本来は馬淵川から岩手県北部、二戸郡、九戸郡、葛巻町から青森県東部の三戸、八戸、下北半島を含む広大な領域。荒覇吐族、安倍氏、奥州藤原氏の支配領域であった。有数の馬産地でもあった。

高舘 義経が八戸に居留している間に作った高舘。

 忌羅市 現在の喜良市のこと。

 砂力 現在の車力のこと。

 待尾間内 マツオマナイ、松前のこと。松前のアイヌ語的な読み方。

 

『日之本文書』には江戸時代以前に使われた地名が記されている

 

 筆者が「判官公傳」で注目するのは、上記の文章に出てくる忌羅市と砂力いう地名の呼び方である。忌羅市は現在の五所川原市金木町にある喜良市(きらいち)にあたると見られ、忌来夷地とも、忌来市とも表記されてきた。

 『車力村史』(車力村役場発行)には忌来夷地という地名が掲載されてあり、むかし、アイヌがこの地にやってきて、交易の拠点としていたことからこの地名が付けられたという説もある。『日本歴史地名大系第二巻 青森県の地名』の中の「喜良市村」の項には「天文年間(一五三二~五五)の津軽郡中名字に『忌来市』とある」と指摘しており、金木町の項には「明治二二(一八八九)年の町村制施行により金木村、喜良市村が成立」としている。喜良市という地名表記は、それほど古いものではないようだ。

 喜良市は外ケ浜と十三湊の中間に位置し、「丑寅風土記 第全六ノ三」の[行丘下ノ切遣道(しものきりけんどう)]という寛永壬午(みずのえうま 一六四二)年に書かれた文章に当時の津軽地方の街道筋と行来川(岩木川)の川湊の地名がたくさん載っている。この情報を書いたのは「川船頭 与衛門」としてあり、まさに近世の津軽、岩木川の交通事情を知りつくした人でしか書けない文章である。

それには加奈岐、十三湊、小泊といった地名と並んで、忌来夷地という地名もあり、これは加奈岐の直前に出ているので、忌羅市と同地名でいずれも「きらいち」と呼んだと思われる。加奈岐とは、現在の金木町のことであり、寛政五(一七九三)年に書かれた「白鬚大津波及域地之事情図」には賀奈岐と書かれている。

「判官公傳」は正嘉二(一二五八)年に書かれているので、[行丘下ノ切遣道]という文章と四百年ものである。喜良市は当時このように呼ばれていたと考えられるので、これを現代人が創作して書けるような文章、地名ではないことがわかる。

 砂力という地名も同じことがいえる。この地名は現在では、車力という地名にあたり、車力地名は豊島勝蔵氏の『十三湊郷土史』にも砂力地名は載っていない。ところが、[行丘下ノ切遣道]には藤崎舟場、若宮水戸口(わかみやみとぐち)などとともに、砂力舟場という地名で載っている。おそらくこの地名は近世以前からの地名であり、この地域は砂丘からなっており、「十三の砂山」という民謡もあるので、それにちなんだ地名であったであろう。つまり「奥州隠誌大要」「丑寅風土記」もまた、近世以降の情報に基づいて、近世に生きた人が書いた文章といって間違いなかろう。[判官公傳]も[行丘下ノ切遣道]もまさに『日之本文書』ならではの文書である。どうして、現代人が現代人の書いた文章を参考にして書いたといえるのだろうか。見当違いもはなはだしいと言わざるをえない。

 

 『日之本文書』の義経北行軍の情報は独自の山伏ネットワークから得たもの

 

 ちなみに、筆者は「歴史読本」の佐藤論文の「さて、これら一連の義経北行伝説は、歴史的事実を伝えているわけではない。『義経記』や幸若舞曲の判官物などと同じく、空想の所産にすぎない」という結論に賛同はできない。しかし「北行伝説中のあるものには、職業的な語り手(座頭、比丘尼など)が関与したのではないかと思われるふしがある」「また、北行伝説の中には、修験管理の物語も混入しているのではないだろうか。佐々木勝三氏の調査によると、箱石の判官神社は、山伏たちの力で建立された。田老の吉内家は代々山伏であった」と述べているのは、事実ではないかと思われる。

「奥州隠誌大要」の[判官公傅]は山伏ネットワークの情報であり、義経主従は、山伏ネットワークの支援を受けて、山伏の格好をしながら、北へ向かったのである。岩手県・田老の吉内家は、吉次の弟の吉内の家と考えられ、各地で金山を営み、時折、北方へ旅立った義経へ金や物資を送り届けていたという。

 岩手県川井村箱石の判官神社の由来書には「判官堂は源九郎を祀ってあること、鞍馬の毘沙門天を祀った御堂(みどう)があったことを明らかにし、大工、鍛冶(かじ)、別当、神主はみな山伏であった」と述べられており、この由来書を書いたのも文殊院快玉(かいぎょく)という山伏であったという(佐々木勝三著『義経伝説の謎』)。

 『日之本文書』「日之本史探証」では「源義経主従は、藤原秀直の手引きによって渡島(北海道)に渡り、後志(しりべし)の余市に遁行した」とある。秀直というのは、安倍氏季の養子に入った藤原秀栄の孫にあたる。 

『東日流六郡誌大要』[安東水軍起る]では「十三湊に平氏滅亡以来源九郎義経が遁世して満達国に渡ったが、これを隠密に探って東日流に浪人がしきりに隠居している」とある。この記事では、頼朝側が盛んに隠密を派遣して、義経の動向を探っていたことがわかるし、義経側も頼朝側の動向をつかんでいただろう。

 【用語解説】

 後志 ここでは北海道の後志地方のことをいうが、青森市付近にも後志地名があった。

 

義経は情報収集、斥候、退却、撹乱のために複数ルートで行軍した

 

 岩手県内のルートでは、義経主従が気仙から船に乗って、八戸にたどり着いたという伝説もあるが、根拠は薄いように思われる。ただし、気仙地方の金山を渡り歩いた後、すぐに、先遣隊が海路で八戸へ向かったことも考えられる。八戸に比較的長期に逗留して、ここに一つの根拠地をつくろうとして動いた形跡があるからである。

 また、大槌の代官所を避けるために、釜石の室浜から山田の船越まで船を使ったという説もある。『通俗義経蝦夷軍談』では秋田、深浦を通って蝦夷地に渡ったというものがあるというが、平泉、胆沢、和賀、荒屋新町、大館、十三湊、小泊から松前のルートも指摘されている。奥大道ルートである。おそらくは義経本体ではなく、平泉残党の別動隊であったかもしれない。平泉王国の残党は、頼朝軍とそれほど大きな戦闘は行なっておらず、おそらく十万人以上の残党が、各地に亡命、移住、植民したと考えられる。大変な数である。このうちの精鋭部隊数千人が大陸に雄飛したとしても不思議ではない。昔からそのルートは開拓されていたのである。

 義経は長居すれば頼朝によって狙われるので、十三湊での滞在は短期間に終えて、津軽半島の三厩(みんまや)の龍飛崎(たっぴざき)から船で松前へ上陸、渡島半島を北上し、江差、洞爺湖、門別、新冠(にいかっぷ)から平取に入り、積丹半島から浜益(はまます)、増毛(ましけ)を通って、石狩あたりから船で北上している。

 義経のルートが幾つかに分かれている場合があるが、それは追っ手や間諜(スパイ)の目を撹乱するため、主従が複数の部隊に分かれて行軍したため、あるいは主従自体の情報収集活動が、複数に別れてなされたからであろう。彼らの蝦夷地での最大の目的は、金鉱探し、砂金探し、大陸との交易をしているアイヌ探しと考えられる。彼らが「蝦夷王国」を創ろうとしてかいなかについては、否定的に考えざるをえない。

 【用語解説】

 船越 山田町に船越、船越半島、船越湾がある。

 荒屋新町 岩手県八幡平市にある町名、駅名。旧安代町。

 

義経一行は蝦夷地を金の探査のために歩き回った

 

 義経主従のアイヌモシリでの行軍ルートも一つではない。『津軽海峡を渡った義経』(新風社)の中で鹿野仰二(かのこうじ)氏は、松前半島の福島、松前、江差、瀬棚(せたな)、弁慶岬から積丹(しゃこたん)半島を通って石狩、浜益、増毛へ進む日本海岸ルートと、福島、函館から白老、勇払(ユウフツ)、静内(シズナイ)、平取(ビラトリ)に至り、今度は西の洞爺湖、ニセコを通って、積丹半島へ進むルートをあげており、いずれもそこから日本海へ出帆し、カラフトの西海岸沖(間宮海峡)を通って、黒竜江から大陸に入るルートを想定している。十勝、知床、旭川など北海道の内陸部にも義経伝説があり、別動隊が砂金に関する情報収集のために踏査した可能性もある。大陸へ渡った地点も積丹半島だけではなく、寿都(スッツ)町や稚内(ワッカナイ)や知床(シレトコ)などの説もあるが、別働隊がそこから渡航した可能性もあるだろう。

 これらのルートには、義経にかかわる神社、寺院、堂宇、石碑、岬、海岸、山河、地名が何十カ所と点在し、口伝や文書も残っており、この行軍ルートでの苦労が忍ばれる。彼らの目的は、単なる逃避行ではなく、金の探査であったので、ほぼアイヌモシリ全域を手分けして歩きまわっているのである。

 【用語解説】

 勇払 北海道の中南部の胆振国に属した。

黒竜江 ユーラシア大陸の北東、中国とロシアの国境を流れる大河。陸のシルクロードの大動脈で船の航行に大きな役割を果たしてきた。ロシアではアムール河と呼ばれている。

 寿都 後志支庁内の町名。

 

安倍、安東一族による大陸への植民は昔から継続されていた

 

『日之本文書』「北鑑 第五十巻」では「東日流は土地がせまく、次男、三男の者は、かの地(山靼)に帰化し、アジアのかしこに入植した。広い大地である山靼へ東日流から渡った者は多いという」と述べている。また、「北鑑 第五十一巻」では、日之本国の民による山靼植民について、次のように述べている。安倍、安東一族の大陸への植民は、継続的に行なわれていたのである。

「わが日之本国に生まれた者は、古い時代に山靼に巡礼し、異土の文明によく学んだ。人が増えては山靼に移住するのは、古代によく行われていた。山靼にわが山里の同地名が残るのは、そのためである。チタの地に残る地名は、皆、移住者の地名である。また唄、踊りにも追分などコルデントとして蒙古の地に残り、今も唄われている。言語にも多く残っている。さながら血累が同じことを知る。睦(むつみ)を欠くなかれ。

人種が同じ山靼にどんなことがあっても、乱の兆しを造るべきではない。常に泰平を心得るべきである」

安東船の船員は、モンゴルのナアダム(Naadam 大祭)に参列し、その親睦を得た。安東太郎貞秀は、自らもモンゴルに赴(おもむ)いて、さらにオリエントの国に至り、トルコ、ギリシア、イスラエル、エジプト、シュメール、ペルシアを経て、モンゴルに帰って、クリルタイに盟約した最初の人物である。貞秀は「一族の望む者をモンゴルの地に帰化させて、この地に永住させることができた。もとよりモンゴロイドという人の種を同じくするので、年毎に望む者が多い。このように移住したのは、十五年間に六八七人を数える」と述べたと「北鑑 第十六巻」は伝えている。

そして、日之本国から発した最大の植民勢力、亡命勢力は、義経主従、平泉残党、平氏残党などからなる一行であり、彼らは先行して植民していたアラト(荒吐)族とともに日之本再興国家を創設するのである。

【用語解説】

  チタ 黒竜江オノン河上流にあるステップ・シンルロードの要衝。義経の先祖の出身地である知多半島地名からきたという説がある。

コルデント オルティンドーというモンゴルの民族音楽のこと。 

安東貞秀 十三藤原氏の秀直を破って福島城を手に入れ、海外交易を盛んにして十三湊の繁栄を築いた。

 

「唐国の王」を目指した義経の大陸への野望

 

 義経は都落ちした当初から「唐国の王」たらんことを切望して、北へ向かったのである。それは越中国(えっちゅうこく 富山)の皇祖皇太神宮(こうそこうたいじんぐう もともとは富山市内にあったが、明治時代に北茨城市に再建されている)への「祈願文」に現れている。それによれば「源義顕(よしあきら 義経の別称)は生国(倭国)に望みなきをもって、自身が蝦夷唐国の王たらんことを望む」と書かれ、花押が添え書きされている。これについて佐々木勝三は、「源義顕」というのは義経の変名であり、筆跡も花押も義経直筆のものとまったく同一筆法である、彼はここで神宮に黄金二十五枚を寄進したとしている。筆者も佐々木の説を妥当なものと考えるものである。

 義経は鞍馬寺での牛若丸時代、遮那王(しゃなおう)時代、仏門に入るために学問に勤(いそ)しんでいる。この時、書道、作文の素養も磨かれたと考えられる。義経直筆の書としては、幾つかの書状と有名な「腰越状」が現在に伝わっており、達筆で、文章もしっかりしており、筆跡も花押も「祈願文」と酷似しているといえる。これらから判断して義経の「祈願文」は本物と考えられる。

 

 敗北した平泉政権の中枢は義経主従とともにモンゴルで日之本亡命政権を作ろうとしたか

 

 頼朝が仕掛けた「奥州合戦」により、平泉は灰燼(かいじん)と化し、一部の財物は奪われてしまった。だが、平泉の金は秘匿され、その多くは、平泉の残党によって持ち去られ、その一部は義経の軍資金として、大陸でのモンゴル民族統一戦、亡命政権樹立に使われたと考えられる。義経と合流した忠衡、国衡によって、持ち込まれた金槐もあったと推察される。奥州藤原一族の多くは討殺されたり、流罪にされたとされているが、それは鎌倉側の創り話で、一族の多くは、奥州各地蝦夷地方面に退却し、あるいは義経とともに大陸へ雄飛した者も多数いたのである。安倍、安東一族の往時からの活動舞台は、北方から大陸に広がっていたのであり、それを平泉勢力が継承することになるのである。。

 義経も弁慶も平泉では死んでおらず、義経に平泉まで従っていた常陸坊海尊も亀井六郎重清も尾形三郎惟義も鷲尾三郎経春なども、そっくりそのまま義経の北行軍に従った。

 平泉王国の残存勢力はどうか。藤原泰衡は、秀衡の遺言を実行しようとしていた弟の頼衡と忠衡を殺害したとされているが、忠衡は殺害されておらず、泉三郎忠衡として、その子泰行や藤原国衡などとともに、義経の北行軍に合流することになる。すなわち、平泉の中枢、特に軍事的中枢が、北へ向い、途中で、平泉残党、平氏残党などと落ち合って、蝦夷から大陸へ向かい、モンゴルの地において、平泉の亡命政権を樹立することになるのである。

 義経はなぜ、北へ向かったのか。金を求めていたのか。それも事実であるが、金は手段であって目的ではなかった。義経が都落ちしてから越中国(えっちゅうこく)の皇祖皇太神宮(こうそこうたいじんぐう)で願文「生国に望みなきをもって、蝦夷・唐国の王を望む」としたためたように、蝦夷地を経て、大陸での国家樹立を目指していたのである。そして、それはジンギス汗のモンゴル帝国、フビライ汗のモンゴル世界帝国へとつながっていくのである。

 佐々木勝三氏は『義経は生きていた』(東北社)の中で「(義経が)恥を忍び苦労に耐えて、遙々(ようよう)奥州くんだりまでやって来たのは、狭い日本を去って、蝦夷・唐国の王たらんとする大望があり、広い天地を考えて、衝天の意気にもえていたからである」と述べている。「奥州くんだり」という言葉はいただけないが、筆者もこの考えに基本的には同意するものである。

 そして、「丑寅風土記 第三巻」は「頼朝が奸計によって平泉政権を討伐したが、呪われた頼朝は子孫の代に北条氏によって謀殺させられ、北条もまた、滅亡してしまった」と述べている。これも正しい指摘である。

 頼朝の天下、源氏の天下は長くは続かなかった。頼朝自身は相模川架橋の落成供養に出席した帰路に、落馬して死亡したことになっているが、北条時政の工作によって、暗殺されたのではないかと見られている。鎌倉幕府は間もなく、平氏系の北条氏に乗っ取られることになる。万一、頼朝が義経を鎌倉幕府に取り込んで、武力を強化していれば、北条氏の跋扈(ばっこ)も防げたのかもしれない。頼朝の失脚の裏でも朝廷勢力が動いていた可能性もあるのではないか。

 やがて本当の勝者が、頼朝ではなく、義経であり、頼朝政権(鎌倉幕府)ではなく、平泉亡命政権(モンゴル帝国)であったことが明らかになる。

 【用語解説】

 藤原忠衡 泰衡の弟で、義経一行と合流する。

 

 『日之本文書』に見る義経の大陸渡航の興味深い記述

 

 『日之本文書』には、義経大陸渡航説が頻繁に登場するが、記述が一致しないところもある。それは出所が異なる民間伝承であるために、避けられないことである。

「東日流三郡誌総集編歴抄」では「源頼朝、兵馬大挙して衣川を攻め落とし、藤原泰衡を討つ。ときに義経、十三湊から渡島のオカムイ崎より大唐に渡る」と述べている。

 『北斗抄 十四』では「満達国平泉記では、源九郎義経は蒙古にて入寂したという記述がある。すなわち、義経伝説に渡島御神威(オカムイ)崎から満達国に渡るという生存説である」と記している。

 この「満達国平泉記」という文書は、現在、伝わっていないのではないかと思われるが、それだからといって、この文書が存在しなかったとか、『日之本文書』が勝手に創作したものだという結論を出すのは早計であろう。

 同じく『北斗抄 十四』には「鎌倉二十五万騎によって平泉は滅亡し、その時、義経主従は遠野にあって、東日流へ向かっていた。藤原泰衡も東日流の外ケ浜で合流し、十三湊からサハリイ(サハリン)に渡り、満達に平泉(大陸にはヘイセンという地名があった)を開き、その一生を安らかに送り、栄えたという。満達に平泉ありきというのは真実で、モンゴル騎馬軍に加勢し、義経の軍団旗は笹竜胆(ささりんどう)だという」とある。筆者は泰衡までも大陸に渡ったとするのには疑問をもっているが、他は史実に極めて近いと考えられる。

『日之本文書』では義経が、平泉で自害したという公認の歴史をそのまま著述しているものもあるが、おおむね「義経は平泉で自害せず、北へ逃れ、蝦夷地から大陸に渡った」という真実の歴史を記録している。『日之本文書』にかかわった人々の情報収集力は侮(あなど)れるものではない。

 実際には、義経一行は樺太から間宮海峡を抜けて、シベリアのアムール河(黒竜江)をさかのぼって、満州の蘇城(スーチャン)、ロシアのウラジオストック、チチハル、チタからバイカル湖地域に至ったと考えられる。あるいはウラジオストクかナホトカに上陸し、ハルビン、チチハルから騎馬によって、オノン河上流に至ったとも考えられる。平泉勢力は、複数あるいは多数のグループに分かれて、大陸渡航を敢行したのである。

 この大陸に渡った義経の軍団はどれだけの規模であろうか。それは追っ手を警戒した隠密行であったために、実態はつかみにくく、記録に残るものは極めて少ない。想像の域を出るものではない。目立たないように、分散しながら移動したにちがいない。まず考えるべきは平泉亡命勢力である。平泉王国の軍団十八万人は、頼朝と全面対決をしたわけではなく、奥州の各地や国の内外へ散らばったということである。そのうちの一割が大陸へ逃亡、亡命したとすれば、一万八千人である。さらに少なく見積もって、そのまた一割が義経に従軍したとしても、千八百人の兵士である。その家族郎党を含めれば、数千人の規模ということになる。

 アイヌの言い伝えに「昔、ホウガン様は金色の鷲を追って、クルムセ国に渡った」というものがある。「ホウガン様」は判官様、すなわち義経のこと、「金色の鷲」とは黄金のことと思われるので、黄金を求めて、「クルムセ国」とは、シベリアかモンゴルの騎馬民族国家のことであろう。伝説だとしても、無碍(むげ)に否定すべきではない。

 【用語解説】

 サハリイ サハリン、樺太のこと。北日高国と呼ばれた。

 オノン河 黒龍江(アムール河)の上流で、モンゴル帝国の根拠地の一つ。

 

 日之本国再興を目指した最強の植民集団

 

 『東日流外三郡誌 第四巻』の[渤海鴨緑江之安東城]には「朝鮮と元国の境に安東城が築かれ、安東氏の落武者、平泉残党、大河兼任(おおかわかねとう)一族、源九郎義経一族、平氏一族、北条一族などが、幸せに豊かに暮らしていた」と書かれている。壇ノ浦の戦いに敗れた平氏残党を安東水軍が乗せて、東日流の領内の諸城に召し抱えたという伝承からつながっているのである。

 大陸に渡った「義経軍団」の実態が書かれてあることが、『日之本文書』ならではである。ここでは「朝鮮と元国の境に安東城」への植民勢力として描かれているが、「義経軍団」がすべて安東城に植民したわけではなかろう。「安東氏の落武者」「平泉残党」「北条一族」などと書かれているので、むしろ、いまだ蝦夷地で行軍していた義経本体とは、別の部隊であったのではなかろうか。義経主従の主流は、黒竜江をさかのぼって、あるいはウラジオストクから陸路を通り、モンゴルのオノン河地域でモンゴル帝国の建設にかかわったのだろう。

 義経が大陸に渡る時点で、その軍団は義経主従、安東水軍、平泉王国残党、平氏残党、大河兼任軍の残党、アイヌなど数千人にのぼる当時の世界最強軍団に成長していただろう。これはステップ(草原)地帯の騎馬軍団を次々と凌駕するに十分な戦力―総大将、参謀、精鋭部隊、兵士、馬、武器、船、軍資金など―を保有していた。そこには平泉から持ち込んだ大量の金も含まれていただろう。

 

 義経の中核部隊は日之本国の平泉亡命集団であった

 

 藤原秀衡には六人の男子がいたが、国衡、忠衡だけでなく、高衡、通衡、頼衡の兄弟も、義経と合流した可能性をなしとはしない。また、藤原一族の隆衡(たかひら)、師衡(もろひら)は相模国へ、景衡(かげひら)は伊豆国へ、兼衡(かねひら)は駿河国へ、季衡(すえひら)は下野(しもつけ)国へ流されたとされるが、これら一族の一部も義経と合流した可能性もあるだろう。秀衡の何人かの孫たちも含まれていただろう。すなわち、義経軍団は平泉亡命集団としての性格が強かったのである。彼らはモンゴル帝国建国の際も、重要な役割を果た

しただろう。

 藤原忠衡は、北行軍の当初から義経に従って行動し、奥州路の案内役を務め、蝦夷地や大陸でも活躍したであろう。彼は泉三郎忠衡とも言われていた。岩手県九戸郡野田村には忠衡の子孫、長男泰行がいたという。彼は中野姓を名乗った。「中野文書」といわれるものには、忠衡が義経にしたがって蝦夷地に落ち伸びたことが書かれてある。義経に組みしたため泰衡に誅殺されたとされるが、中尊寺須弥壇(しゅみだん)にあった首桶の首級は忠衡のものではなく、泰衡のものであることが確かめられている。藤原秀衡の重臣、佐藤三郎義信、佐藤四郎経忠なども義経主従に加わっている。すなわち、義経軍団の中核は平泉亡命集団であったのである。忠衡だけでなく、平泉残存勢力の遺骸や墓がほとんどまったく残っておらず、モンゴルで日之本再興国家、すなわち、平泉亡命政権の中枢に入ったのであろう。

 

 大陸に渡った強者(つわもの)ぞろいの義経軍団

 

 文政九(一八二六)年に山田敏雄によって書かれた『義経勲功図絵』は義経の北行について、具体的な名前を出し、次のように展開している。伝説的な部分もあるであろうが、真実からそれほど遠いものとは思われない。ただし、蝦夷へ渡ってかの島を攻めなびかせ、ついに金国まで攻め入ったというのは、事実と相違しているのだろう。金国ではなく、モンゴル帝国とすべきだったのである。

 「義経公は腹心の郎党、伊勢(三郎義盛)、武蔵坊、常陸坊(海尊)等と密々蝦夷渡海の謀を商議し給い、常陸房海尊、備前平四郎成春両人を彼地へ渡らせて、島人の心を懐かせ、かつ地利を探らせ給い……、(平泉の)高舘において殿(義経)が攻伐されたと聞こえてはいるが、ひそかに若君、北の方を始め、腹心の郎党士卒を連れて高舘を落ち、蝦夷へ渡り、かの島を攻めなびかせ、ついに金国まで攻め入り給う」

京都の鞍馬山以来、義経に従った部下たちは、主人と同じく勇猛果敢で、自己犠牲の精神にあふれ、情に厚く、義経主従の側近、義経軍団の側近の位置を占めた。彼らのうちで、源平合戦で戦死したり、義経の身代わりとして自害したりしたものもいたが、彼らの多くは、都落ちに際しても、北行軍に際しても、大陸渡航に際しても、モンゴル帝国建国に際しても、極めて重要な役割を果たしたと考えられる。

 

 平泉勢力はモンゴル民族を統一したジンギス汗に協力した

 

 ジンギス汗は、テムジン(鍛冶職人)という名前で、モンゴル史に突如登場する。当時のモンゴル高原はウイグル族、契丹族、女真族などが、バラバラに遊牧国家を形成し、モンゴル諸族もテムジンのキャト・ボルジギン族をはじめとして、タイチウト族、メルキト族、オイラート族、ケレイト族などに分裂し、反目し合っていた。テムジン、あるいはジンギス汗は服属しない部族に対しては、情け容赦のない攻撃を加えたが、武力征服一辺倒ではなく、交渉によって盟約したり、帰属させたりした。彼は敵を攻撃する前に簡潔な「降伏勧告文」を送って帰順を促し、投降した民族、投降した国には、多大な貢納を要求した。投降を拒否した場合は、婦女子を除いて全滅させた。

 このようにして彼は、モンゴル諸族を支配、征服していった。忠誠心の強い勇敢なモンゴル戦士も集まってきた。テムジンあるいはジンギス汗の軍隊は、奇襲戦、正規戦でも、野戦での戦い、市街戦での戦いでも、いかなる形の戦いでも、ほとんど負け知らずであった。

 テムジンは、一二〇六年の春、オノン河畔付近に大クリルタイを招集し、モンゴル族を統一して、遊牧民連合体としての大モンゴル国家(大モンゴル・ウルス)を樹立、自らジンギス汗と名乗った。このようにして、モンゴル高原のモンゴル諸族が統一された。

このオノン河のほとりは、黒竜江の上流にあたり、以前から安倍氏、奥州藤原氏と金の取引があっただろうし、彼らの有力な植民地域であった。義経主従も平泉の残党も平家の残党も、船でのぼってきた、あるいは馬で到着した彼らの根拠地であった。ここで日之本国の再興をはかる理由があったのである。

 【用語解説】

クリルタイ もともとは北方系の民族の長老会議のこと。モンゴル帝国の国会を表す言葉になる。

 

モンゴル、満州などに残る義経主従の痕跡

 

 沿海州の東の入り口であるナホトカ、ウラジオストックからシベリア東部、中国北部にかけて、すなわち、義経一行、あるいはその子孫たちが行軍した、あるいは移り住んだと思われる地方には、彼にちなんだ地名、人名が残っている。

 ウラジオストックにハンガン岬という地名があるが、これは義経の判官からきているだろう。

 ウラジオストックの近郊に、ジンギス汗が築いたと見られる蘇城(スーチャン)という古城があり、ここはジンギス汗の根拠地のひとつであった。ここは「イーポン(日本)」から落ち伸びた武将(義経)が築いた城で、ここからジンギス汗は、中国全土に攻め入って、その大王となったという伝説がある。

 また、ウラジオストック近くに「源義経墓」と書かれた亀形の台石があったという。石碑には笹りんどうの家紋があり、石碑自体はロシア軍が運び去ったという。

 シベリアのナホトカ近くにも、沿海州のオリガー湾などにも、ハングワンという地名があったという。満州にも蒙古にもクロウという地名があるという。沿海州のナホトカ、ウラジオストックは、義経主従が上陸した地点であるという伝説もあり、日本からの亡命者の重要な上陸点であった。

 ハバロフスクには、源義経(キャンウチョ)廟というものあり、そのご神体は鎧兜(よろいかぶと)を着けた武者、すなわち義経の像であり、笹りんどうを付けていたという。

 ジンギス汗が滞在した熱河省(現在の河北省)には「ヘイセン」という地名があるのは、奥州の平泉からきているのではないかという。

 これらを単なる語呂合わせ、こじつけとして完全に否定するのか、すべて正しいとみるのか、検討に値いするとみるか。筆者としては再検証すべき事項であると考えている。義経一行がどのような経路で、オノン河一帯に進出したのか、黒竜江をさかのぼったとみるのか、あるいはナ

ホトカやウラジオストックに上陸し、陸路を馬でオノン河に進出したのか。距離的にみれば、ウラジオストック経由のほうが近い。

 ただし、少なくても数千人にのぼると見られる義経亡命勢力は、植民集団でもあったために、彼らのすべてがオノン河一帯まで全員が進出したのではなく、行き先々で家族ずれは植民してとどまり、そこに義経集団と関係のある文化を残したと考えられる。オノン河まで進出したのは、軍事的精鋭部隊が中心だったと思われる。

 

源義経と平泉亡命集団 

 

 「北鑑 第五十八巻ノ十一」(寛政七年八月 報恩寺蔵書)

 「モンゴルのチンギス汗との盟約によって、倭の落人をモンゴルに多数帰化永住せしめたが、かの源九郎義経もチンギス汗のもとに帰化し、ブルカン岳のゲルにその主従を住まわせたといわれている。

 さらには安徳天皇を東日流天皇山からこの地に先住せしめて、義経はモンゴルの地において、安徳天皇の臣として、生涯仕えたとも伝えられている。ちなみにモンゴルに残る笹りんどう紋の付いた遺物が、今に見られるのは、その証拠である」

 【用語説明】

①ブルカン岳 モンゴルのヘンティー県にあるヘンティー山脈にある山。バイカル湖に近い。

 ②ゲル モンゴル式の天幕。

 ③東日流天皇山 津軽半島の南西にある、現在のつがる市の小さな山。

④安徳天皇第八十一代天皇で、二歳で即位するが、政治の実権は平清盛が握っていた。壇ノ浦の戦いで、平家は源義経の率いる源氏に敗れ、安徳天皇は入水したとされるが、身替わり、生存説が根強い。 

 【内容説明】

 義経一行は、弁慶、海尊、亀井六郎、尾形三郎らの家臣だけでなく、平泉から引き連れてきた藤原忠衡軍や鎌倉軍に敗れた秋田の大河兼任軍、平氏残党軍が合流し、数千の精鋭騎馬部隊となっていただろう。藤原忠衡は泰衡の弟で、秀衡の長男、泰衡に殺されたとされるが、衣川の戦い以降、義経の北紀行に同行していたのである。また、泰衡の異母兄である国衡も、奥州合戦で討ち死にしたとされるが、平泉の残党を集めて、義経に合流するのである。また、藤原秀衡の重臣、佐藤三郎義信、佐藤四郎経忠なども義経主従に加わっている。すなわち、義経軍団の中核は平泉亡命集団であったのである。彼らはモンゴル帝国建国の際も、重要な役割を果たしただろう。